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タレント性バツグン?
タレント 森田仁さん
うちの母親、変わってますよ。小学生のとき、伊豆大島の三原山噴火のニュースを見てて、「あんた明日学校休みなさい」って。同じ東京都(当時は東京都・月島在住)でも海の向こうの島の話だし、「平気だよ」って言ったんですが、「違うわよ。明日、噴火を見に行くんだから学校休みなさい」だと。数日後、全島避難命令が出ると「あんたが、グズグズしてるから見逃した」って怒ってるし。
名古屋出身だからか、パチンコが大好きでね。「あぶく銭は人に施すのが一番」って、勝った日は私と妹に1万円ずつくれたりしました。あるとき実家の押入れを整理してたら、段ボールから自分が芸人をやっていたころの切り抜きとかビデオがいっぱい出てきて。一瞬感動したけど、段ボールの中ぐちゃぐちゃで、スクラップするんならちょっとは整理しろよ!って心の中でつっこんだね。
そんな母ももうすぐ80歳。昔から天然なんで、ほんとにボケたのか見極めるのが難しい人だけど、先日も「オレオレ詐欺撃退してやった」って自慢してたし、まだまだ元気です。東京に帰ったときは、必ず顔を見せるようにしています。
ここで生まれて焼いている
おやきの冨士屋 金井敬胤(ひろつぐ)さん
ボクが生まれた時から母は、銀座商店街で商売をしていました。赤ん坊の時は、店内のソファで寝ていたらしく、この甘~く香ばしい匂いの中で育ちました。中学生のころから、お祭りなど忙しいときには手伝ったりもしていました。友達は遊んでいてうらやましかったけど、アルバイト代もらっていたので一所懸命働きましたよ。
本格的に店に入ったのは19歳から。ずっと母が働いている姿を見てきたので、あんまり抵抗はなかったです。母はヒザが悪くて手術しているので、いま焼き手はボクが中心でやっています。立ち仕事だし、夏は暑いし、結構きつい仕事だと思うけど、母が文句を言っているのを見たことはないです。がまん強い人だと思う。でも、ヒザに負担をかけないために、もうちょっと体重を落として無理しないでほしい。
たいやきの金型は開業時からのもので、30年以上の年季が入っています。この金型を引き継いで、たっぷり餡の入ったちょっとメタボな冨士屋のたいやきを、これからも焼き続けます。
過渡期支えた立役者
和風旅館扇松園 女将 高橋仁美さん
母は、お茶やお花を嗜む優雅な少女時代を過ごした人。そんな生活が一変したのは父と結婚し、二人が旅館を継ぐようになってからです。移転や事業拡大などもあり、父を支えるため朝から晩まで働く毎日。父は「やると言ったらやる」という性格で、周りの意見には左右されることがほとんどなく、ついていくのが大変だったと思います。
私は二人姉妹の長女で、転勤族のサラリーマンと結婚したのですが、札幌にいた頃はことあるごとに「忙しくて手が回らない。少しでも良いから帰ってきて手伝って」と電話が掛かってくるんです。里帰りっていうと、のんびりとリフレッシュするのが普通かもしれませんが、私は帰るたびに忙しくて(笑)。
子供も大きくなり、本格的に継ぐと決めて旭川に戻りましたが、父母の古いやり方に意見して対立することも度々ありましたね。三代目として私が発言権を強めていくと、母は少し寂しそうでした。「私だってまだまだやれる」という二代目のプライドがあったんだと思います。でも晩年は肩の荷が下りたと思ってくれたのか、女学校時代の友人と旅やランチに出かけたり、大好きな父と船旅を楽しんだりと、これまでやりたくてもできなかったことに時間を使ってくれるようになりました。創業から80年を数える扇松園の物語を私に繋いでくれたことに感謝しています。
父子の作陶支える女神
大雪窯 板東光太郎さん
母には怒られた記憶がまったくありません。ずっと僕の好きにさせてくれていて。就職活動時期にさえ(当時は窯を継ごうと思っていなかったので…)、なにかを言われたことはないんです。
結婚前はレジ打ちなど接客業についていたそうで、「周囲を明るくしてくれる存在」と、僕たちが実感する以上に周りの人から言われることが多いです。父(窯元・豊光さん)を、母はその朗らかさで結婚以来40年近く、公私に渡ってサポートしてきたわけです。いまは僕も奥さんに手伝いをしてもらっているから、そのあり難さがよくわかるようになりましたね。大雪窯の器たちは、夫婦の二人三脚があって成り立っているんだなぁと。
あ、唯一怒られたことを思い出しました。小学1年の頃、家族でスキーに行ったときのことです。まだろくに滑れもしない僕を、なんと旭岳ロープウェイに乗せてね。高い山で怖かったのに、母が怒るものだから、まあ激励だったのかもしれないけど、どうにかこうにか滑り降りて…あれ?僕、なんにも悪くないよね(笑)。
僕の娘達はそれはもう見事なおばあちゃん子ですよ。お菓子を買ってくれるから、買い物に「ママとパパは来ないで」なんて言われたりして…。
愛しい母に赤い花を
(株)オクノ 社長 石原嘉孝さん
愛知県の料亭の娘として育った母は、背は低いけど気が強くて。どっしりと肝が据わったところがありましたね。高校時代の僕が酒を飲むのも気にしなかったし、浪人中は「勉強はほどほどにしてストリップでも見に行ったら?」なんて言われたり。北大に入学が決まってから、狸小路の劇場に飛び込んだよ(笑)。
僕が小学生のころまでは父の繊維問屋の事業がうまくいっていて、当時はよくわかっていなかったけど全国でも指折りの資産家だったようです。自宅にダンスホールがあったり、別の家の裏庭は地域の盆踊り会場になるほど広かったり。中学に入るころには没落がはじまって、兄貴はロレックスの時計にディオールのバッグで通学していたのに、結局僕はそんな経験ないままですが。
高校にもなると、家では話さなくなりました。それでも母は毎夏恒例の無銭旅行に餞別をくれたり、絶妙な距離感で見守っていてくれましたね。大学1年の冬に母から届いた手紙を読んで、なんてことない内容だったのに「お袋死ぬんじゃないか」と感じてね…そしたらやっぱり数日後に危篤の報せが届いたよ。
お袋は僕がもうちょっと立派な人間になることを期待していたかもしれない。今、年に4回は墓参りに行っているよ。大阪の自宅に赤いバラが咲き乱れていたのを思い出して、赤いカーネーションを手向けています。
女どうし、今は飲み友
(株)オフィスユー 代表取締役 林ゆかりさん
実家が居酒屋を営んでいたので、私の小学生時代は学校帰りに掃除なんかを手伝い、あとは奥の部屋で営業終了を待つ。そんな毎日でした。数年後に銀座商店街に鮮魚店を開いたのですが、父が開業3年ほどで他界。母はそこから女手一つで私を育ててくれました。夜中、仕入れに行っては戻ってお弁当を作り、配達のために40歳で運転免許を取ったり。今思えば苦労の連続だったと思います。
私が会社を辞め、司会業を始めたときはなかなか言い出せなくて。絶対怒られると思ったんですが、打ち明けたときには驚きもせず「あんたが決めたことなんだから大丈夫。しっかり頑張りなさい」って背中を押してくれた。思わず泣いちゃいました。そうそう、私が仕事関係で嫌がらせを受けたときには、その人が母の店にも現れて。母は「帰れ!」って粗塩撒いて追い払ったんですって。私たちの周りでは今でも〝母子伝説〟になっているんです。
私に厳しかったのは、早く一人前にさせようとしてのことだと大人になって気付きました。でも今では「あんたは自立しすぎて、可愛げのない子になってしまったよ」なんて皮肉も(笑)。母の居酒屋は、元魚屋だけに刺身や焼き魚が旨い。私も時間があれば足を運んで、わがまま言い放題に食事を楽しむ、そんな関係が今も続いています。