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地味にクる、笑いのルーツ
(株)昇夢虹 イラストレーター 小川けんいちさん
父は自動車関連の会社員でした。家でもきりっとしていて、寝転がったりおならしたりなんて見たことない。両親は美術部の出身で、幼い頃は美術館によく連れて行ってくれましたね。
力技で笑いを引っ張り出す母ケイコと、物静かながらぽつっとおもしろいことを言う頭脳プレーの父カズオ。僕が常々口にしている、イラストで人を楽しくさせたい、笑わせたいって思いは両親から引き継いだもの。奥さんにも「意地でも笑わせにくるよね」と呆れられますが、ちゃんと線引きがあって、大爆笑は望まない。控えめでしょ(笑)。クスっと、ちょこっと笑ってもらうくらいがちょうどいいんだ。
高校時代に少し悪さしたとき、「お母さんがどれだけ心配したかわかるか。すべては思いやりだぞ」と父に静かに諭されました。今でも僕の心に残っている、大事にしている言葉。いつも楽しいことと思いやりのバランスを探っています。
で、描いてみましたよ。これが私の父と母で~す。母はこんなに髪の毛はねてないし、父だって本当はこんな7・3分けじゃないんですが、似顔絵ってイメージを強調するとおもしろいし、不思議と似るんですよ。
師匠であり、大先輩であり
(株)リゲルプロジェクト 美容室HIKARI 鈴木綾菜さん
物心つかないころから、各地の歌謡大会に出場する父の応援に家族総出で行ってました。「私も出たい!」となったのは自然な流れで、中1で初めて大会に出て特別賞をいただいてからはもうズブズブ(笑)。それ以降、曲のセレクトから歌の指導にわたって父に協力を仰いでいます。
最初はポップスを歌っていたのですが、五木ひろしさんがオハコの父の影響を受け、次第に演歌も歌うように。私は思春期でもお父さん大好きっ子で、高校生ごろまで父のTシャツを着て寝てました(笑)。趣味も仕事も同じだから気がつけばいつも一緒ですが、きちんと線引きはしていますよ。父は一言で表現すると情の深い人。歌謡サークルの生徒さんにも、本業の美容室のお客様に対しても、一人ひとりに誠心誠意向き合ってくれます。いつもバイタリティに溢れていて青年のようですが、これからも変わることなく愛情いっぱい、元気いっぱいの父でいてほしいですね。
ときどきはさんろくのスナックにも出没します。顔も声も、気持ちよ~く歌っている人がいたら、それが私の父です。
有言実行。行動で示す男
有限会社北海道井泉 代表取締役 伴野忠孝さん
私の生まれは東京浅草。父は製本や印刷を手掛ける会社を経営していました。学生時代は私も工場を手伝ったりしていたけど、母が一時期天ぷら屋をやって。そちらに憧れを抱いてしまった。高校卒業の半年ほど前、父に料理人の道に進みたいと告げました。そしたらね、「じゃあ俺ももう仕事やめよう」って(笑)。今考えると心臓を患っていたし、息子は跡を継がないし、ちょうど良いタイミングだと思ったのかも。本当に叔父に譲っちゃった。
枝幸町出身で道内各地に親族がいたから、引退後は毎夏、旭川を拠点に道内旅行してました。私は上野にある井泉本店に飛び込んで修業を始めて。数年経った頃父がいきなり「お前そろそろ店出さないのか?」って聞くの。東京で開業するにはお金も貯まってないし無理だって言うと「いや、旭川だ」って。旅でこの地の良さを分かっていたんでしょうね。終の棲家を探していたのかもしれません。
それからはあっという間。私は「老い先短い父と札幌オリンピックを見に行く」と店に嘘をつき、4日間休みをもらって下見に来ました。当時の旭川は養豚が盛んで、街にとんかつが根付いていましたし、さんろく街の賑わいにも驚いて。これならいいぞと旅行中に店の場所も決めちゃいました。それが2月、5月には店をやめて7月にはオープンです。そして父と母は2年後、旭川に移住。なんだか全てが父の思惑通り…ですが、その強力な後押しがあったからこそ、今の井泉があるのでしょう。亡くなって40年近く経ちますが、今も感謝の気持ちでいっぱいです。
アートの洗礼は父からね
ギャラリーシーズ 代表 久木佐知子さん
札幌でサラリーマンをしていた父が、祖父(2代目)の後を継ぐため、36歳で旭川に帰郷。まじめで温厚という言葉がぴったりな人で、「信一は口ごたえしたことがない」と祖父がよく言っていたのを覚えています。私も怒られた記憶がありません。餅菓子屋という家業で、従業員とも家族みたいな関係でしたね。みんなで連れだって旅行に出掛けたり、楽しかったなぁ。
父は絵画や映画・演劇、文学が好きで、小学生の私を連れてハリウッド作品やフランス映画も見に行きました。「こんな世界もあるんだ」って、私はぽわんと口を開けて眺めていただけですが、夢見がちに育ったのは父の影響かな(笑)。のちに画廊を開く私に、文化や芸術に関心を持つきっかけをくれましたね。
54歳で急死してしまった時はとてもショックでしたが、落ち込んでいる私を励ましてくれたのは、父をよく知る常連のお客様たちでした。残してくれた家業を継いでいくのが使命だと思いましたし、立ち上がることができました。父が貫いてきた「信用第一」を信条に、世代を超えてご支持いただける餅菓子屋を目指していきたいです。
草花を愛でた4代目
近藤染工場 常務取締役 近藤耕介さん
父は近藤染工場の4代目で、現在の社長は5代目の叔父さんが務めています。長年、兄弟力を合わせて、会社を切り盛りしてきました。多趣味な人で、山登りや民謡なんかも嗜んでいました。特に熱を入れていたのが畑仕事です。鷹栖に山林を持っていて、イモとかダイコンとか枝豆なんかを育てていました。子供のころ、遊びに連れていってもらうといえば、決まって畑。それが当たり前と思っていましたが、いま思えば、体よくこきつかわれていました。息子の名前に〝耕〟って入れるくらいだし(笑)。
私は大学卒業後、教員になったんですが、父は昔から一言も家業を継げとは言わなかったです。それよりも畑の手伝い。中学生のとき、今で言う総合学習のように、うちの畑を生徒たちに開放して農業体験をさせたりもしていました。シベリア抑留体験の影響か、土にまみれて働くことに尊さとか生きる意味を感じていたのかもしれません。
草花も好きで、会社のまわりで、アサガオを育て始めたのは父の案だと聞いています。染物屋らしい発想ですよね。アサガオのカーテンは、今も夏の風物詩として、地域のみなさんに親しまれています。
怒ってくれてありがとう
ラーメンふるき 店主 古木孝子さん
もともと挨拶大好きなおじさんで(笑)。買物に行っても、品より人を見て声掛けて。それを楽しみに出掛けているような人でした。
1982年に始めたこの店は、タクシー運転手だった父が母の夢を実現させたもの。一か八かやってみるか!って修行にもいかず。子供ながらに覚えているのが、父の舌の感覚がすごいってことです。家族で食べに行ったちゃんこ屋のスープを家ですんなり再現してました。
私は高校くらいから店を手伝うようになって、でも一緒に仕事している時は大嫌いでした。掃除はやり直し、お客さんにはとにかく大きい声、笑顔で元気にって。あーしろこーしろ、どんどん厳しくなってきて、毎日喧嘩です。さっきまで私を睨んだり怒鳴っていた父が、お客さんの前では瞬時に変わる。その態度がまた悔しくて(笑)。
でもね、母が倒れたことで出前を止めたときは、これまで通りお客さんが来てくれるのか、父はすごく不安がっていました。毎晩とりつかれたように看板ラーメンの味噌を練って。今思えば、いろんな思いを隠すように没頭していたのかも。無理していたのかな。ただそんな心配をよそに、相変わらずたくさんの方がいらっしゃってくれて、あらためて父の目くばり、気くばり、心くばりが半端ないってことに気付かされました。
「味濃くない?」「どこから来たの?」って、なによ、いい格好しちゃって、と父を見ていたけど…今、それ自分がやれてる。当時できずに怒られていたこと、出てこなかった言葉が言えてるんですね。同じ立場に立ってみて、見えてくるものがあります。反発しながらも叩き込まれたことが生きています。