6月16日は父の日です。
菓子づくりは、まちづくりから
まんじゅうやどらやきといった和菓子は、88歳になる父が今も毎日作ってるんだよ。この歳で働いている菓子職人は、道内では珍しいみたい。「一生現役」、それを体現しているよね。
小樽と東京で修行して、俺が店に戻ってきたのが約30年前。若い頃はよく意見がぶつかって。当時は流行りばかりを追っていて、未熟だったよね。店は1957年にオープンして、今年で67年。長く続けるには、時代に合わせて柔軟に対応しないといけない部分もあるけど、守らなければいけないものもある。その基準は、父の姿を見て、少しずつ身に付いていったと思う。もちろん父も歳を取っているから昔みたいな勢いはないけど、まだまだやめるって言わないんだよな。どころか、まだ新しいことしようとしてるんだよ。固定概念にとらわれず、俺よりも発想が自由かもしれないな。
父から言われて一番心に残っているのが、「菓子づくりは、まちづくりから」という言葉。東川の水、米粉を使った看板商品のシフォンケーキだって、まちのストーリーと結びついているからこそ、説得力が増す。いい素材は、いいまちがあってこそ。まちも店も人も、想いを繋げて長く続くことで生まれる価値がある。そんなお菓子づくりを、これからも続けていきたいね。
いつだって一番のファン
AKB48好きの友達の影響で、私も小学生からファンになりました。当時は自分がアイドルになるとは思っていなくて、ただ好きという感覚だけ。でもチーム8のオーディションで北海道枠があることを知って挑戦してみようと決意しました。
両親も最初は本気じゃないと思ってたんじゃないかな。でも私が本気だと知って、お父さんが募集サイトを調べて、応募を手伝ってくれました。オーディションに合格して、週末に東京へ通うようになると、お父さんが旭川空港まで送り迎えしてくれました。うまくいかないことがあったら、深夜でも実家に電話して話を聞いてもらったりして。お父さんは表面では分からない優しさでいつも私を守ってくれました。
新しいグループで再出発することも応援してくれました。「支えなきゃ」と思ってくれているのか、以前にも増して熱心に応援してくれています。「ラルメールの情報は一つも見逃さない!」って(笑)。
私はすごく甘やかされてきたと思います。小さいころはお父さんが歯磨きを手伝ってくれたり、朝が苦手な私を抱っこでリビングまで運んでくれたり。グループを卒業した時、オーダーメイドのケーキを用意してくれて、札幌まで取りに行ってくれたのもお父さん。ケータイの待ち受け画面も私だし、いつも一番のファンでいてくれます。
芸能界という未知の世界に入ることを最初は心配していたと思いますが、そんなそぶりを見せない気遣いが嬉しかった。いつも応援してくれるお父さん、ありがとう。これからもよろしくね。
背中に学んだ客商売の姿勢
中学卒業後にすし職人の修業を始めた父は、私が2歳のころに独立して店を持ちました。自宅併設の店だったので、いつもカウンターで働く父の姿を見ていました。父と跡継ぎの話をしたことはありませんが、子供心に「いつか自分が店を継ぐんだろうな」とぼんやり思っていました。
私は小さいころからテレビが大好きで、ドリフやビートたけしさんの番組をよく見ていました。芸人になりたいと思うようになったのは、高校生になってから。高校の先輩が吉本の養成学校に行くと聞き、急にリアルに感じて、お笑いの道を真剣に考えるようになりました。将来はさんまさんのように周りを明るくする芸人になりたい、爆笑問題さんのような漫才をやりたいと夢がどんどん膨らんでいきました。
父にはなかなか言い出せず、進路選択の期限が迫った高3の夏、意を決しました。仕事を終えて晩酌をしながらくつろぐ父に、突然土下座して泣きながら「すみません!あの世界に行きたいんです」とバラエティ番組が映っているテレビを指さしました。そしたらなんと、ハイレグ水着のお姉ちゃんが踊るお色気コーナーに切替わっていて(笑)。それを見た父は「どんな世界に行きたいんだ」と呆れてましたね。
客商売の姿勢は父の背中に学びました。劇場でお客さんと向き合う漫才師も毎日が真剣勝負。いつもお客さんに気配りしながらカウンターに立つ父の姿が目に浮かびます。
仲良くケンカしよ
仲は良いようで、悪いかな(笑)。私のやることによく反対します。小さいころからハンターの父や伯父を見ていたので、私もずっと興味があって。時間もお金もないから我慢してましたが、25歳のときに当時の彼と別れて時間ができたので、じゃあ狩猟免許取っちゃおって。まー父は大反対。伯父の後押しでなんとか取れましたが、最初は父と狩りに出ることはなかったですね。でも今や父は楽ちんな運転手、私は仕留めた重い鹿の運搬係!
私は動物が好きなんだけど、父はペットを飼うのも大反対。どうせ怒られるなら飼って怒られようと思って、道で拾ったカメを黙って保護したり、消防団の集まりでいない隙に大型犬をお迎えしたりしてますね(笑)。中1のときには、授業に集中しないで髪の毛ばっかりいじってるって先生から家に連絡があって。冤罪だったのに父に怒られたの。腹が立ってその日のうちにボウズ頭にしちゃった。
そんな感じにやりあってきた私たちですが、年齢的にもう引退だって思っているようで、最近は店のことも「任せる」と言われます。今の夢は沖縄でもう一度マグロを釣ることみたい。台風やコロナでなかなか実現できなかったから、今年こそは行けたらいいね。
つなぐ、100年の歴史
土木建築系のサラリーマンだった父は、体力勝負の仕事をこなしながら、私が当時打ち込んでいた剣道の試合に必ず応援に来てくれました。全国大会まで駆けつける熱狂的な追っかけでしたね。
私が中1のときに祖父が亡くなって、父が店を継ぎました。それまでほぼ製造に携わったことがなく、記憶を頼りに試行錯誤の日々。糀やみそ造りは5日工程の繰り返しで、とにかく朝が早い。朝4時には仕事が始まります。生活リズムが違いすぎて、そこからは一緒に過ごした記憶がありません(笑)。父は裏表がなく、真っ直ぐで単純。誰にも隔てなく接するので、お客様に対する姿も家での姿もまったく変わりません。それが「顔の見える町のみそ屋」として愛される理由なのかな。
両親は、私たちきょうだいに「やりたいことを自由にやったらいい」といつも黙って見守ってくれて、店を継いでほしいと言われたことはありません。ですが、いずれは自分が継ぐだろうと自然と思っていました。今後も生活の中でみそや糀がなくなることはないと思いますが、この地域でどんな役割を担っていくべきか、父と共に思い描いていることはたくさんあります。大正13年から続くこの店を、家族一丸で守っていきたいですね。