ライナー40周年記念企画、「旭川ふしぎ発見!」。旭川の歴史をクイズ形式でおもしろく掘り下げます。監修は、元NHK旭川放送局長で旭川郷土史ライター&語り部の那須敦志さん。さあ、ミステリーハンター アツシ君、最終回はどんなクイズを出してくれるでしょう…?

Q. 名物店長あだ名はなぁに?
私たちが暮らす旭川の、ちょっと昔の面白エピソードをご紹介する「旭川ふしぎ発見」。まずは前回のクイズに答えていきましょう。

前回のクイズのおさらいです
4条通8丁目の師団通にあったカフェー・ヤマニの名物店長、速田弘には、いくつかのあだ名がありました。次のうち、彼のあだ名ではなかったのは?
Ⓐヤマニの兄貴
Ⓑヤマニの大将
Ⓒ旭川一のモボ(モダンボーイ)
Ⓓカフェー界の帝王
正解はⒹ。

ヤマニの兄貴とか大将、旭川一のモボという呼び名から、シュッとした顔立ちの人物を想像していましたので、初めて写真を見つけた時、思いがけない地味系の顔立ちにあれっと思ったのを覚えています。

しかしそのセンスや能力は洗練の極み。時代を先取りしていました。ヤマニは、弘の父親が、明治44年に創業した食堂が前身です。弘が経営を担うようになった大正12年、時流に乗ってカフェーを併設すると(のちに専業)、たちまち人気店となりました。今のカフェとは違い、和服に白エプロンの女給さんが迎えてくれる大人のお店です。
成功の裏には彼独自の鋭い経営感覚がありました。自ら考案した斬新なコピーとカットの新聞広告を立て続けに掲載した他、当時始まったばかりのラジオ放送の聴取免許をいち早く取って客集めに利用するなど、次々と新機軸を打ち出しました。
しかし昭和に入って戦時色が強まると、経営は急速に悪化。カフェーと喫茶、レストランを合わせた新店舗「パリジャンクラブ」で立て直しを図りましたが事態は好転せず、彼は行き詰まって自殺を図ります。

一命は取り留めたものの旭川から姿を消した弘。ただそれで終わらないのが彼でした。なんと戦後、東京銀座で「シローチェーン」という高級クラブを経営して大成功。実業家として、華々しい復活を遂げています。やはり彼の経営感覚は本物だったんですね。
旭川の歴史を調べていると、その行動や実績から勇気を与えてくれる人物に出会います。ヤマニの兄貴もその一人です。
マルチな才能の持ち主
新感覚の経営者、弘のもとには多くの文化人が集まりました。中でも注目は音楽家グループ。弘は旭川初の弦楽アンサンブル「共鳴音楽会」でチェロを担当したほか、チャールストン・ジャズバンドというグループも結成。マルチな才能で旭川に新風を吹かせました。
連載のおわりに
14回に渡ったこの歴史クイズも、今回が最終回です。北海道の内陸開発の拠点として発展した旭川は、むかしから交通の要の場所であり、また北海道の陸軍の本拠地でもあったことから、他のマチにはないさまざまな歴史のエピソードを持っています。その中には、現在の私たちにとって参考になるものが少なくありません。
むかしを知ることは、いまを見つめ直し、あすを考えることにつながります。これを機会に、郷土の歴史についてさらに興味を持っていただけると幸いです。
那須 敦志