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すーっと目を閉じる。ごく自然に。映画を見ているはずなのに、静かに目を閉じてしまう。それも何度も。これはそういう映画だ。
音楽がなく、言葉もない部分は目を閉じても構わない。いやむしろ、目を閉じてでも耳を傾けるべきであろう。その音に。
この作品は音楽を本当に最小限にまで削減し、多くのシーン、特に茶道のシーンでは音楽を流さない。茶器が立てる音、衣擦れの音などのほか、窓の外から入ってくる音で季節や時間帯を感じさせるなど、音をとても大切にしている。使われている音楽も楽器の少ない編成のもので、間を大切にしたものになっている。音が引き潮のように引いていって目を開くと文字が映っている。節気を示す文字が入ったり、劇中に書が登場したりする。こうした文字として選ばれている言葉も美しい。少々冗長なモノローグについてはもっと言葉を減らしても良い気はしたけれど、黒木華によるこのモノローグは作品世界の音を邪魔せず、とても耳に心地よい。
これはただ茶道を題材にした映画ではなく、茶道の心を映画にしようとしたものだ。そしてその試みはかなり成功していると感じた。
少々大げさかもしれないが、この作品は新鮮な映画体験をくれる。(映画ライター・ケン坊)
ケン坊がさらに語る!WEB限定おまけコラム
この記事には映画のネタバレが少々含まれているので、まだ映画を見ていない人はその点をご承知おきの上で読んでください。
奇しくも樹木希林さんの訃報の後で公開されることとなった本作。この作品を残してくれたことを感謝したい。
本作は茶道をテーマにした作品ということで、これまでありそうでなかったもの、らしい。原作は茶道の先生をされている方のエッセイであるから、ノンフィクション的な要素も大きいだろう。
私は茶道をやったことがないし、知識もほとんどない。茶道と言えば形が大切で、心を磨くものだろう、という認識があった。それは概ね間違っていないのだけれど、「まず形を作る。形を作れば心は後から入る。」という先生の言葉は意外だった。無心に形を身体で覚えるまで反復する。頭で考えない。意味も考えない。「どうしてですか」と聞きたがる若者に、先生は答えられない。「どうしてかって言われると困っちゃうのよ」などと言っている。私は漠然と、こういう形にはいろいろと能書きがあって、このような意味でこうするのだ、とか、所作の一つ一つに説明があるものだと思っていた。しかしこの映画を見たらそうではなく、意味など無くてもいいからとにかく形を覚えろと言うのだ。そうすればおのずと心は入るのだと。そうだったのかと目から鱗が落ちた。
たしかにその通りだった。ひたすら繰り返すうち、心は無に近づいていく。無心に手を動かすうち、身体の方が頭より先に動きを覚える。すると世界の音が聞こえてくる。頭で考えていると音は聞こえてこないだろう。目の前の動作を間違えずにやろうと集中している限り、蝉の声の変化、雨音の違いなどに気づくことはあるまい。
この二時間足らずの映画を見ただけで茶道の心などを理解できるものではなかろうと思うけれど、それでもしかし、茶道とはそういうものだったのか、という発見があった。
主人公は達人でも天才でもない。雑念に惑わされたり行き詰まったりする。茶道でもほかの生活でも。そして茶道は、そうした俗の部分を捨てて達観することを目指しているものではどうやらない。日々の暮らしで波立った心を静めるために、文字通りお茶でも飲みませんか、ということのようだ。
映画に誘われて目を閉じ、音に耳を傾ける。目の前のあれこれから意識を引き剥がすことで、見落としていたいろいろなものが見えてくる。主人公が茶道を通して得た感覚を、この映画はわずかな時間で我々に垣間見せてくれる。まさか映画でこんな表現ができるとは。これは本当に稀有な映画体験なのではないかと思えてならない。