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- ⓒ2020「記憶屋」製作委員会
記憶屋と聞いて、記憶を売るような『トータル・リコール』みたいな話を想像した。本屋は本を売っているし魚屋は魚を売っている。八百屋は八百を売っているし万屋は万を売っているはずだ。走り屋は走りを売っていて当たり屋は当たりを売ってい…ないような気がする。どうやら〇〇屋は〇〇を売っている人とは限らないようだ。
ここでの「記憶屋」というのは記憶を売るのではなく、記憶を消してくれる存在だ。消したいほどひどい記憶、すなわち、忘れたいほどの出来事。ありますよね。些細なことから大きなものまで、「忘れてしまいたい」と思うこと、一つぐらいはあるでしょう。それを本当に忘れられるとしたら…。
この作品の原作はホラーのレーベルから出版されているようだけれど、この作品はホラーではなく、記憶を操作するSFでもない。これはとてもせつない恋愛映画なのだ。人は誰かに記憶されることで生きている。誰かの記憶から完全に消えてしまったら、その誰かの世界から自分はいなくなる。
素晴らしいラストシーンから見事なエンドロールへと繋がる。たった今まで見てきた物語のすべてが詰まった歌。稀に見る素晴らしいエンドロール。誰一人席を立たないだろう。(映画ライター・ケン坊)
ケン坊がさらに語る!WEB限定おまけコラム
この記事には映画のネタバレが少々含まれているので、まだ映画を見ていない人はその点をご承知おきの上で読んでください。
記憶を消すといえばSFだ。昨年の『レプリカズ』はまさにそういう感じで、人の記憶の中からある人物の記憶だけを消したりしていた。そんなに都合よく消せるものか。ある人に関する記憶というのは他のさまざまな要素と絡み合っていて、一見無関係な記憶と結びついていたりする。ちょっと考えてみてほしい。知人の誰かを思い浮かべる。その人に関する記憶というのは決してその人と直接一緒に過ごしたものだけではないはずだ。たとえばオムレツを食べながら、「あぁ、あの人がオムレツ好きだったな」とか「あいつはオムレツに醤油をかけていたな」とかいう具合に絡まっている。ある人物の記憶を消す時にこのオムレツと紐づいた要素まで消すことは難しいだろう。
本作では「忘れたい記憶を消す」ということがあっさり行われる。他の要素が損なわれないまま、都合よく消したいものだけが消せる。それによって「愛する人の記憶から自分がいなくなる」という状況を作り出している。そう。これは恋愛映画なのだ。
この「愛する人が自分を知らない状態になってしまう」というのは、記憶障害を持つ恋人という形でさまざまな映画になっている。短時間で記憶がリセットされてしまう人などが登場し、そんなことが起きたらどうするのか、という物語を描く。本作はそれと似たようなことを違った方法で描いていると言える。
「消してしまわないと生きていけないような記憶」を本当に消してしまうということについて、是非を問うようなシーンはある。しかし作品のスタンスはあくまでニュートラルで、作品としてその是非に対しての立場は表明していない。純粋に問題提起だけをしているように見える。そして最終的にそれらを恋愛映画として描いている。難しいことはさておきせつないね、という感想が去来する。
この上なくせつないラストシーン。その存在を知る人の記憶から自分を消して去っていく記憶屋。自分を知っている人の記憶から自分を消してしまう。忘れられてしまったというよりは、初めからいなかったような感じだ。人波に紛れていくその後ろ姿が哀しい。それと対照的に、記憶屋のことを忘れて新しい希望を見出す主人公。もう記憶屋のことは記憶にない。「あぁ。」と思う。主人公にとっては前向きな結末だが、それでいいはずはないだろうと思わずにいられない。複雑な感情が沸き上がりかけたその時、静かにピアノが響く。中島みゆきの『時代』。本作の主題歌としてエンドロールに流れる。その歌詞の一つ一つが、たった今見終えたこの切ない物語のあらゆるシーンを呼び起こす。どんなにつらいこともいつか笑って話せるようになる、という歌詞。劇中ではそれを記憶から消してしまうのに。たおれてもあるきだす。わかれてもめぐりあう。こんなにも見事なエンドロールはそうそう無いだろう。