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- ⓒ2020「Fukushima 50」製作委員会
誰もが知っている事故の知られざる裏側の話。これはとんでもない映画だ。あの出来事のあと、ニュースなどで見た映像。あの現場で撮影することはできないはずなのに、その場で撮ってきたような映像になっている。あのとき現場にいた人にも徹底した取材をしたのだろう。なにがなんでもこの映画を作る、という作り手の想いがものすごい迫力となってスクリーンに満ちている。すんでのことで日本が壊滅する事態を避けることができた奇跡。次々に吹き飛ぶ原子炉建屋をニュースで見ながら、今日がこの国の最期かもしれないと思ったあの日の不安が蘇る。その裏で起きていた死闘の物語が描かれている。あの日、あの画面で見た映像の中には、あの場所で文字通り命がけで奮闘していた人たちがいた。それはわかっていた。いや、わかっていると思っていた。画面のこちら側にいただけの私はそのことを本当にわかっていただろうか。
ラストシーンを見ながら今前代未聞の事態を巻き起こしている新型ウィルスのことを思う。すると主人公の言葉が脳裏によみがえる。「おれたちは何か間違ったのかな。」
いつだってその答えは、後戻りできないところへ行ってしまった後にならないとわからないのだ。(映画ライター・ケン坊)
ケン坊がさらに語る!WEB限定おまけコラム
この記事には映画のネタバレが少々含まれているので、まだ映画を見ていない人はその点をご承知おきの上で読んでください。
福島第一原発事故。歴史の教科書に載るような出来事だ。東日本大震災の津波によって引き起こされた事故であるため震災とまとめて語られることが多いけれど、震災とは別項目として同じぐらいのページ数を割いて教えるべき、人類史に残る大事故である。あの事故をきっかけに世界の国々が動いたのに、当事者である日本はあまりに危機感がない。
本作はその事故のさなか、現場で死闘を繰り広げた人たちを描いた物語である。緻密な取材とほとんど執念のような情熱によって大変な映像が出来上がった。あの日、あの場所をスクリーンに蘇らせる、という執念。巨大なセットを用意して再現されたという事故当初の現場は、ニュースなどで見た映像のそのままの印象だ。現地で撮影したかのようなリアリティだが、もちろんあの現場で撮影などできるはずがないし、既に廃炉に向けて新たな設備が建設され、現地の方がむしろ当時とは違う姿になっている。
莫大な電力を製造できる原子力発電所。その発電所が電源を喪失して致命的な事態を招く。電気なら売るほどあるはずだったのに。巨大地震が大津波を引き起こし、未曽有の被害を出した。それだけでも歴史的な出来事なのに、偶然にもその場所に決して小さくない原子力発電所があった。不運としか言いようがない。想定外の大津波による全電源喪失。想定外なのだから誰にも予想できない事態だったのだ。本作はその前代未聞の事態のただなかで奮闘した人々を描いた物語である。
終盤で主人公の当直長が言う。「おれたちは何か間違ったのかな。」そして、それを問われた所長は後に手紙でその答えを書き送る。「おれたちは自然の力をなめていたんだ。10mを超える津波など来ないと高をくくっていた。」そうなのだ。想定外の事態が発生して初めて、それを想定できるようになる。おれたちは初めから間違っていたんだ。でもその間違いが発覚しない限り、間違っていることに誰も気づかない。
ラストシーン、今年(2020年)予定されている東京五輪についてテロップが出る。復興五輪として行われ、聖火は福島からスタートするのだと。その五輪を目前に、日本は未知のウィルスが蔓延し、なるべく行きたくない国になりつつある。このウィルスへの対処はこれで良かったのか。もっとできることはなかったのか。ないのか。もちろんその答えも後になってみなければわからない。あのときこうしていれば、と。
おれたちは何か間違ったのかな。もしかして今も、何か間違っているのかな。