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きわどい。最初のシーンから音が強力だ。画面から溢れ出ているのは「若さ」だ。若さとは有り余るエネルギーだ。それが音楽となってシアターの空気を震わせている。きわどい。最初のカットから異様な緊張を感じる。そこここに漂うのは死の香りだ。クルマが走るシーンでは今にも事故を起こすのではないかと思い、列車が見えれば衝突するのではないかと思う。窓から顔を出せば対向車と接触するんじゃないかと思い、浜辺で遠雷を聞けば落雷で死ぬんじゃないかと思う。常に死が付きまとっているのだ。
この映画が描いているのはある一つの家族だ。主人公は前半が息子で、後半はその妹。一本の作品ではあるものの、中身は完全に二つに分かれていて、前半と後半はまったく別の映画かと思うほどテイストが異なる。前半は強烈なヴァイブレーションを伴う音楽的な映像で、破滅のすぐ隣を全力疾走しているような緊張感がある。翻って後半はもっとわずかな震えを伴うささやきのような映画だ。もちろん音楽も穏やかになる。
この映画で起きたことをニュース記事にするとどうなるのか。きっと事実だけを並べても現実を知ることにはならないのだ。この映画はそのことを気づかせてくれる。(映画ライター・ケン坊)
ケン坊がさらに語る!WEB限定おまけコラム
この記事には映画のネタバレが少々含まれているので、まだ映画を見ていない人はその点をご承知おきの上で読んでください。
とても音楽的な映画だ。音楽と映像の表現が五分五分で絡み合っている印象を受ける。主人公は肩の故障を隠しながらレスリングに挑んでいる。彼はまっすぐな青年だ。割とイケイケな連中とつるんでいるものの、悪いやつでないということは伝わってくる。しかし彼のおやじは異常だ。まっとうな人物だがあまりに厳格で、周りのことが何も見えていない。とりわけ、息子のことをまったく見ていない。見ようともしていないが、本人はそれに気づいていない。これは無自覚の暴力である。主人公はこういうおやじに対し、どこか底の方に鬱屈したなにかを蓄積しながら穏やかにやってきた。そこから生まれる緊張感が、スクリーンに漲っている。今にも破裂しそうな動脈瘤のように脈打っている。「あぁ、よくわからないけど人が死ぬ」という気配が、最初のカットからずっとそこら中に滲み出ている。
見ていて苦しい。限界まで膨らんだ風船にまだ空気を入れようとするおやじ。無理だ。もうダメだ。でもおやじはどこまでも無自覚だ。おまえのせいで人が死ぬぞ、と思いながら見る。おまえが大切にしている息子はおまえのせいで破滅しそうになっている。それなのにおまえはそれに微塵も気づかない。なぜわからないんだ。そんな思いで祈るように画面を見る。お願いだから破壊的なことになる前に小さく爆発してくれ。おやじと殴り合いでもして解決してくれ、と思う。
しかし。もちろんそんな風にはならない。考えうる限り最悪の形で破滅は訪れる。嗚呼。おやじにあったのは善意だった。彼は息子を愛していたし、すべては良かれと思ってやっていたことだった。ただ、肝心の息子をぜんぜん見ていなかった。無自覚に振り回す善意はロクな結果を生まない。その見本のようなおやじだ。
前半で息子は取り返しのつかないことになり、後半はその妹を主人公にして家族の再構築を描く。完全に崩壊した家族はこの妹を中心にカタチを取り戻そうとする。妹にできた彼氏がキーになった。彼氏のロクでもないおやじが危篤となり、妹はこの彼氏を連れてその死にかけているおやじに会いに行く。この一件を通じて、妹は「家族」というものを理解するのだ。彼女の家族に欠落していた家族に必要なもの。それを見つけた彼女はそれをもって家族のもとへと帰って行く。
家族はカタチを取り戻し、妹には笑顔が戻る。ハッピーエンドのように描かれるラストシーン。しかし。そこに兄の姿は無い。大きな欠落だ。無自覚が巻き起こしたこれが結果だ。
この事件がニュースになれば、世間の何も知らない我々は加害者を責めるだろう。しかし。この映画の息子、タイラーを人でなしだと罵ることができるか? 確かに彼の犯した罪は重い。しかし彼がそんなギリギリのところにいるのに気づきもせず、どうでもいいことに厳格だった父親は涙ながらに「愛している」とかいうセリフを吐く。この父を許して息子が責められていいのか?
事実を情報として受け取っただけでは、ことの本質はまったく見えていない。そのまま軽率な意見を表明することは、自らもまた無自覚に悪を振りまく加害者になるということに他ならない。