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- ⓒ2020「宇宙でいちばんあかるい屋根」製作委員会
家族ってなんだろう。過去に紹介した作品にも、家族を描いたものがいくつもあった。とりわけ日本映画では、この「家族とはなにか」というテーマがよく描かれる。血のつながっていない夫婦というユニットを軸にして形作られる家族というチーム。一つ屋根の下に暮らす家族。離れて暮らしている家族。血縁でもなんでもない人たちが集まっているだけの家族。家族にはいくつもの形がある。ただの制度のようでもあるし、それ以上の意味がありそうな気もする。
主人公の少女はある夏、星降る空の下で不思議なばあさん、星ばあと出会う。星ばあは屋根を見ればそこに住んでいる人のことがわかると言う。そんな星ばあとの一夏の交流を通じて、多感な年ごろの少女は心震わせながら一歩ずつ、大人への階段を上っていく。
星ばあは魅力的だ。長い年月を「しぶとく」生きてきた経験を背後に持って放たれる言葉たち。少女を導いたその数々の言葉は、けっしてもう若くない私にも強く響いた。
言葉を使わずに何もかも語りつくすようなラストシーンから、主人公を演じた清原果耶の歌に飾られたエンドロールへとつながる。心の中に星空が広がるような気分で劇場を後にできるだろう。(映画ライター・ケン坊)
ケン坊がさらに語る!WEB限定おまけコラム
この記事には映画のネタバレが少々含まれているので、まだ映画を見ていない人はその点をご承知おきの上で読んでください。
ファーストシーンは2005年と出る。このように年がわざわざ提示されるというのは、これが何らかの意味を持つということであろう。そう思って見ているのだけれど、物語はずっと2005年のまま進む。中学生の女の子が、隣の家に住むちょっと年上のイケメンに恋をしたり、学校でちょっとした面倒を抱えたり、家庭では父の後妻さんに赤ちゃんができて自分の立ち位置に不安を感じたりなど、する。家族をテーマにした青春劇といった感じのもので、星ばあという特異な人物は登場するものの、なぜ2005年という指定をする必要があったのかはラストシーンまでわからない。
この「2005年」というのを引きずったまま、なぜこれを2005年と指定する必要があったのだろうかということをずっと考えながら見ていた。唯一、この時代ならではのものが出てくるとすれば、それはいわゆるガラケー。スマートフォンではないタイプの携帯電話だ。そのガラケー向けのオンラインサービス(ドコモのi-mode みたいなやつ)で学校の「裏掲示板」というのが登場する。もしかしてこれを出したいための2005年設定だったのだろうか、とかいうことをあれこれ考えながら見た。
結論から言うと、そんなことを気にする必要はなく、普通に現代劇として見れば良い。私はきっと込み入った作品を見すぎてあちこち毒されているのであろう。むしろ2005年であることはぜんぜん気にせず、素直に主人公の心の動きや星ばあとの交流を楽しんでいただきたい。この物語が2005年になっているのは、ラストシーンで2020年、つまり現在を描くからであった。それだって、現在に対しての過去という位置づけというよりは、過去の物語の、その後日談として現在の様子が描かれるだけなのだ。ただこのラストシーンはとても素晴らしい。星ばあとのエピソードから15年経った現在が、言葉を使わずに描かれる。主人公の15年後の姿も登場しない。このラストシーンは本当に素晴らしい。15年後の主人公は星ばあとの思い出をとても大切にして生きていることを思わせる。そこからつながるエンドロールでは主人公を演じた清原果耶の歌が流れる。素朴で無垢な声で歌われる主題歌は、星ばあに育まれた透き通った心を失わずに生きている主人公の今を感じさせる。
この映画を通して束の間私たちも星ばあとの時間を過ごすことになる。星ばあとの時間はこれからを生きるための大きな糧となるだろう。
「時間っていうのはもっと、気持ちよく使え」
「後悔っつうのは、行動してから、しろ」
ありがとう星ばあ。もらった言葉を自分に刻み込んで、歩いていくよ。