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- ⓒ2022「銀河鉄道の父」製作委員会
誰もがその作品を一つぐらいは知っている宮沢賢治。本作はその賢治を父親の視点で描くという試みがされているが、実はかなりの部分がフィクションであり、史実とは異なっている部分も多い。あくまで父と子を中心に家族を描いた映画として見たほうが良い。
今でこそ宮沢賢治と言えば誰もがその作品に触れるような国民的作家であるが、彼の作品がこれほど読まれるようになったのは彼の死後のことである。おそらく賢治本人はここに描かれているように、自らの作品がその後百年近くの長きに渡って読み継がれていくとは思いもしなかっただろう。
この作品では、賢治の父は明治の終わりから昭和初期という激動の中で、当時の父親的な部分を大きく持ちながらも、変わろうとし、新しくあろうとした人として描かれている。実際、宮沢賢治の人生に大きく影響を与えたのはこの父親と妹のトシであることが知られているが、本作はそれをさらに脚色し、特に家族の心のやり取りにフォーカスしている。それ故感動的なシーンが多く涙も誘われるが、史実とは異なっている点が多いので間違った認識が広まる懸念はありそうだ。この映画を機に宮沢賢治に興味を持つ人が増えたら嬉しい。(映画ライター・ケン坊)
ケン坊がさらに語る!WEB限定おまけコラム
この記事には映画のネタバレが少々含まれているので、まだ映画を見ていない人はその点をご承知おきの上で読んでください。
前評判通り、「感動的」で「泣ける」映画であった。が、同時に、これは史実からは思った以上に遠く、多くの部分で大胆に脚色されている。「感動的」で「泣ける」ものとしてかなりチューニングされているのである。映画としてよくできていて泣ける作品になっているだけに、間違った認識が広まってしまう、これを史実と誤認する人が増える懸念はあると感じた。
この作品には、この手の作品によくある「これは史実をもとにした物語です」とか「この作品はフィクションであり、~」といった文言は特になかった。しかし宮沢賢治は実在の人物であり、実際の彼の作品が作中にいくつも登場するし、周囲の人物(賢治の家族)も実名で登場するのでフィクションとは認識しにくい。私は個人的に宮沢賢治が好きなのでこれまでに作品はもちろん、周辺の研究書籍などもいくらか読んできており、この作品に描かれている話は正直なところ「けっこう違うな」という印象だった。もちろんフィクションであるからそれで良いのだが、「これはフィクションですよ」と明確にしておかないと間違った情報を流布することになりかねないのではないかという気がした。映画として良いだけにこの点が少々気にかかる。
作中で最も印象に残ったのは賢治の臨終のシーンである。ここで父、政次郎が賢治の「雨ニモマケズ」を暗唱する。「雨ニモマケズ」は暗唱の課題としてもよく取り上げられるため、諳んじているという方も少なくないだろう。それを政次郎役の役所広司が、今まさにわが子を看取らんとする心持でほとんど絶唱する。このシーンは圧巻であり多くの人がここで涙するだろう。私も涙を誘われた。が、これは史実と大きく異なっており、「雨ニモマケズ」は賢治の生前には誰も読んだことがなかったとされている。手帳に書かれていたのは事実なのだが、この詩を政次郎が賢治の生前に読んだことはおそらくない。明らかにこの感動的なシーンのための創作になっているのだが、このような良く知られている事実を曲げたシーンの存在が、見方によるとこの映画の価値を損なっているような気もする。役所広司の朗読はさすがであり映画にとって重要なシーンであるだけに、それが史実を大きく曲げたものであるというのは些か感動に水を差しているような気もする。
このように、全体的にこの作品はとても良い映画だと思うのだけれど、如何せん史実からの脚色が少々行き過ぎているため手放しに喜べないところがある。ラストシーンは幻想的で素敵だが、それまでの流れゆえに、ちょっと安っぽく着地してしまったなという感じも否めない。
ただ、本誌にも書いたように、この作品を見たことがきっかけとなり、宮沢賢治に興味を持つ人が増え、彼の作品が広くまた新しい世代に届いたとしたらやはりこの作品には大きな意義があると言える。