- ©2023 映画「隣人X 疑惑の彼女」製作委員会
©パリュスあや子/講談社
宇宙からの難民が地球にやってくる。彼らは人間と同じ姿に擬態することができ、既に地球人に溶け込んで暮らしている。そんな世界を描く作品だが、SFではなく人間を描いたヒューマンドラマである。見た目が人間と変わらず、見ただけではそれが宇宙人なのか地球人なのかわからない。わからないというのは怖い。メディアはそこに付け込んで恐怖心をあおるような報道を行う。それは「そのほうがウケが良いから」という理由による。
現在の現実世界でも問題になっている多様性を拒む差別的感覚と、数字のためなら手段を選ばない報道。極めて現代的な問題意識で描かれる物語だが、人間に擬態する宇宙生命体という要素を持ち込んだことで各所の甘さが目立ってしまった印象がある。
人を様々な付帯要素で判断せず、「心の目で見る」ことの重要性が説かれる。これから日本は少子高齢化がさらに加速し、移民を受け入れずには国を維持できなくなっていくであろう。宇宙難民と一緒に暮らす日もそう遠くないかもしれない。いやむしろ、もうすでに我々の間に溶け込んでいるかもしれない。あるいは、私やあなた自身も、もしかしたら宇宙からやってきたのかもしれないのである。(映画ライター・ケン坊)
ケン坊がさらに語る!WEB限定おまけコラム
この記事には映画のネタバレが少々含まれているので、まだ映画を見ていない人はその点をご承知おきの上で読んでください。
地球人に擬態する宇宙生命が難民としてやってきている世界。でも描こうとしている問題意識はごく身近なもので、宇宙難民という要素を持ち込む必要はなかったのではないかという気がする。宇宙難民が僕らの中にすでに溶け込んでいて、本人さえも自分が宇宙人であることを知らずに生きている。これを人々の不安の対象にして物語を進めていくわけだが、随所でこの宇宙生命の設定が甘く、ご都合主義的に使われるだけにとどまってしまっている。
例えばかれらは地球人に「擬態することができる」という説明がある。同じ姿をしているのは擬態によるものだ、という設定だ。だが地球人がそれとわからないままこの宇宙生命体(が擬態した姿)と結婚し、子どもが生まれることもあるという。そのような子どもは自分が宇宙からの難民であることを本人も知らないという事例が登場する。これは「本人も自分が宇宙人だと知らない」という要素を持ち込むための強引な設定に過ぎない。なぜ擬態しているはずの生命体と人間が交わって子どもができるのか。また、彼らの擬態はスキャンによって行われるというが、スキャンされた人物はどうなるのかという説明がない。この設定だけで考えるとスキャンされた人物は二人になってしまうと思うのだが、もちろんそんなことにはなっていない。
このように細部の設定がないまま「宇宙から来て地球人の姿をしている」という要素だけを利用しているため、各部でつじつまが合わない。
この作品が伝えたいのは「人を付帯要素で判断せず、心の目で見よう」というメッセージのように見受けられるが、「宇宙難民」という設定が「手っ取り早くそのメッセージを伝えられる要素」として少々安易に持ち込まれているように見える。SFではなくヒューマンドラマだからこれでいいという向きもあろうが、逆にそうであれば変にSFにしないほうが良かったのではないかという疑念は拭えない。