なにしろ、こんなに急に真冬になるとは思っておらず、若干風邪をこじらせた。息も詰まりそうな鼻声、敬愛するミュージシャンの訃報、数年前から続く右腕の痛みも加わり、気分は下降の一途を辿っていた。「当たり前」が当たり前なことじゃないと気付く瞬間は、この連載を通して何度も味わってきた。だが、何度経験しても、やっぱり忘れてしまう。平凡な日常って、なんて尊いんだろうか。
ずっと気になっていたお店。お世辞にも入りやすいとはいえない、年代を感じる佇まいがいい。3代目となる今の店主は、前店主との運命的な出合いをきっかけにお店を引き継ぎ、40年以上続くこの看板を守り続けている。もう3年になるらしい。時流におされてあまり見なくなった極深煎りのコーヒーが、先代の頃から続くこのお店の味。それを求めて、店主が変わった今でも足繫く通うファンが多いそうだ。後から追いかけてくるような香りとコク。これは確かにまた飲みたくなる。冷めてもおいしいのが特徴とのこと。それを知ってか知らずか、コーヒーを片手に会話を楽しんでいたり、小説の続きを読んでいたり、静かにジャズが流れる店内は、時間さえもゆっくりと流れているよう。あの出合いと、老舗の看板を継ぐという並々ならぬ覚悟がなければ、今日のこの時間も、この一杯もなかったんだよな。コーヒーをすすりながら、そんなことを考えていた。
次の予定に備えそろそろ出ようかと、段取りをしつつ気づくと鼻をすすっている。すっきりはしないが、少しだけ気分が和らいだ気がした。今が今のまま、いつまでも続くとは限らない。次は絶対にプリンも食べよう。いや、それなら今食べるべきか。しばし葛藤を続けながら、最後の一口を飲み干した。
あとがき
半分趣味のような形でスタートしたこの連載も、ついに最終回を迎えることとなりました。自分本位の内容にも関わらず取材にご協力いただいた方々、また読者の皆さま、長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。