- ©2024 Searchlight Pictures.
シンガー・ソングライターでノーベル賞を受賞した、現時点での唯一の存在であるボブ・ディラン。本作は彼の半生から初期のごく短い期間にフォーカスして描いた伝記的映画作品である。ウディ・ガスリーの影響を受けてフォーク的アプローチに傾倒し始めたころから、1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルでのエピソードまで、わずか数年間だけにフォーカスして描いている。
特筆すべきはディランを演じているティモシー・シャラメ。本編で流れるディランの歌はすべてティモシーが歌っているのだが、歌部分だけ本人のものを流しているのかと思うほどに似ている。外見はそれほどよく似ているというわけではないものの、童顔でありながら眼光鋭いボブ・ディランを好演している。
本作ではディランがミュージシャンを目指して活動し始めるあたりから、想定外に売れて困惑するあたりまでが描かれている。何者かになりたい人が激増したSNS時代において、カテゴライズされたくない、コントロールされたくない、という彼の生き様は刺激的だ。迎合することで数字を稼ぐことを何よりも嫌い、徹底して抗っていく彼の姿勢から今学べることはとても多いのかもしれない。(映画ライター・ケン坊)
ケン坊がさらに語る!WEB限定おまけコラム
この記事には映画のネタバレが少々含まれているので、まだ映画を見ていない人はその点をご承知おきの上で読んでください。
ボブ・ディランを描いた伝記映画ではあるのだが、ごく初期の数年だけにフォーカスされている点に割り切りの良さを感じる。かなり思い切って描く範囲を限定したのだろう。クライマックスは有名な1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ここでのディランの演奏は大いに話題になり、彼のヒストリーの中でも有名なエピソードになっている。ただ、実際のところこの時どのようなことがあったのか、という部分については諸説あり、映画の中に描かれているのはその諸説からつまんできた部分をつないだような内容で、これが事実だ、というわけではない。この点は少々注意が必要だ。
また、時代性もあるのだろうけれど、64年あたりから麻薬をやっていたと言われるディランの、そういう負の部分については具体的には描かれない。とはいえメイクアップはあきらかに63年ごろのシーンと比べて目の周りなどが麻薬中毒者風になっているので、彼の行動が少々変化しているのも薬物によるものだと推測できる程度には描かれている。
本作は演奏シーンに大きく時間を割いており、この時期の楽曲がかなりたくさん披露される。一方で音楽映画に徹しているわけではなく、どちらかというとディランの姿勢の部分にメッセージ性を感じる。彼はカテゴライズされることを嫌い、型にはまることを嫌う。何者かになろうとするのではなく、「自分」としてそこに立つことにこだわっている。
クライマックスのフォーク・フェスではある視点からのみ「フォーク」を定義しようとする者たちへの反発から、このフェス自体をぶち壊すようなパフォーマンスをする。人気稼ぎのためにやっているわけではない。数字を取るためにやっているわけではない。表現者としての姿勢がそこにはある。数字を追うことに躍起になっているSNSでの競い合いを見るにつけ、何者でもないものになろうとしたディランが結果として時代を牽引したという事実の意味を改めて考えさせられる。